母の手を振り払って“防空壕”から逃げた、8歳の少年 残った母と妹は、遺体となって河原に並んだ…400人以上が犠牲の“高知大空襲”から79年 87歳の男性が語るあの夜の出来事

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  • Опубликовано: 3 июл 2024
  • 400人以上が犠牲になった「高知大空襲」から4日で79年です。高知市で行われた追悼式典に、当時8歳だった男性が参列しました。空襲で母と妹を亡くした男性が、当時の記憶や平和への思いを語りました。
    1945年7月4日、高知市上空に飛来したアメリカ軍のB29爆撃機が多数の焼夷弾を投下。まちは火の海に包まれ400人以上が犠牲となりました。
    高知市は、犠牲者を追悼する「平和祈念式」を2005年から開いていて、4日は、空襲を経験した人や犠牲者の遺族ら60人ほどが参列しました。
    ■高知市 桑名龍吾 市長
    「改めて、戦争のない国、平和な高知県、安全な高知市を作ることを、ここに決意します」
    空襲で犠牲になった大勢の人の遺体が仮埋葬されていた場所に、「平和祈念碑」が建てられ、毎年、犠牲者が弔われています。参列した人たちは、「祈念碑」に鏡川の水をかけたり献花したりして、犠牲者の冥福を祈りました。
    小学2年生の時に高知大空襲を経験した、岡村正弘(おかむら・まさひろ)さんです。その日、家で寝ていたところ、「叫び声」で目が覚めたといいます。
    ■8歳の時に高知大空襲を経験 岡村正弘さん
    「寝よった時、サイレンではなく、『空襲警報!』と。目が覚めたら部屋の中が明るくて。『ありゃ、おかしい』と思って外を見たら、真夜中やのに、街がずーっと昼間のように見えて…」
    焼夷弾が降り注ぐ中、岡村さんは母と妹とともに、懸命に防空壕へ避難しました。
    ■岡村正弘さん
    「(鏡川の)向こう岸から対岸を見たら、建っちゅう家が全部燃えゆう。その火の大きさ。その家も、その向こうも、全部が燃えゆうき。真夜中やけんど、昼間のように明るかった。そして(米軍の)飛行機が、火に照らされて黄色く見えた」
    しかし、避難した防空壕では…
    ■岡村正弘さん
    「(防空壕の)中でじっとしよったけどね、7月4日の晩は暑うてね、きょうも暑いですけど。暑うて、いっぱいの人で、息苦しゅうなってきてね、『ここで辛抱せぇ!』と言われても、よう辛抱せんなってね…。それで私は、母の手を振り切って、外へ飛び出た」
    それが、生死を分けました。「安全」だったはずの防空壕の中で、母と妹は、亡くなりました。
    ■岡村正弘さん
    「ここに200体くらい、亡くなった人の遺体をずーっと並べとった。私の母も妹も、そこへ並べちゅうがを、朝、ここへ来て探して」
    「(身元が)わからん人もどっさりおったわけよね。それを火葬場へ持って行ったりして、毎日毎日、24時間、徹夜で火葬していって、(全ての遺体の火葬に)半月ばぁ、かかっちゅうがよ。母と妹の遺骨を受け取りに行ったのは、私が高校3年になってから。私らは(空襲後)、遺骨を受け取りに行けるような生活環境になかった」
    87歳になった岡村さんですが、いま、この時代だからこそ「平和への思いが強まっている」といいます。
    ■岡村正弘さん
    「死んだ者は生き返らんきね。私は母と妹が亡くなったがやけんど。できるだけ当時の話をして、いま、日本が危険な道へ進みゆうき、これを止めて、平和の道へ行くように、子どもたちにも(語り部として)話をしています」
    変わり果てた母の死に顔を至近距離で見たことに岡村さんは相当なショックを受け、そこから50年以上、60代になり仕事を定年退職するまで戦争の話ができませんでした。それでも現在は、「戦争は二度としてはならない」と、学校などで子どもたちに自身の体験を語り続けています。

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